吉岡温泉なるほど大事典

吉岡温泉周辺の観光・名所

吉岡温泉周辺の定番の観光名所から最近注目の穴場的名所までをご紹介します。

白蛇弁天

双六原の崇敬神社。白蛇弁天は金運上昇のご利益あり。金色や白色の蛇の目撃例がある。平成20年に本殿を新たに建立し盛大に祝った。

高殿古墳

6世紀末から7世紀初め頃の築造とされる。直径16m高さ1.8mの古墳で横穴式石室。

吉岡温泉町の東側、松原との間に位置する。

松原古墳群

古墳時代前期から後期にかけての古墳群であり、今回見つかった田んぼ・住居跡の墓地だった可能性が指摘されている。

瀬田倉神社

長柄の南西、洞谷川沿いに位置し、上瀬田蔵と下瀬田蔵に分かれる。以前は、景平という支村があったが現在は住居はない。近世は瀬田倉とも記した。その上瀬田蔵と下瀬田蔵の中間に新座するのが瀬田倉神社。素戔鳴命、保存食を祀る。瀬田蔵の氏神さま。明治初年に瀬田倉大明神・八幡宮・荒神が合併し瀬田倉神社と称した。

六地蔵尊

旧鹿野街道湯村の清水畷の入り口に位置する所に六地蔵尊がお祀りされている。幼児の守護仏とせれており、8月23日には提灯の明かりに照らされた賛同を行き交う人で賑わう。

阿太賀都健御熊命神社

健御熊野命(たけみくまのみこと)ほか三神を祀る。延喜式神名帳所載の神社である。貞観7年(865)に従五位下が授けられる。

近世まで柱大明神と称した。昭和49年「御熊神社玄武岩柱状節理」が鳥取市文化財に指定されている。

矢矯神社

矢矯の山裾に鎮座。素戔鳴神(すさのおのみこと)、経津主神(ふつぬしのかみ)、保食神(うけもちのかみ)を祀る。矢矯、又六原の氏神さま。社叢は地区内唯一の県指定天然記念物(昭和31年指定)で、御神木のスギ(幹周5.4m)をはじめ巨木が林立する。近世まで妙見大明神と称していたが、明治初年に矢矯神社と改称。大正2年に香取神社を合祀した。

(社叢=神社を囲む森のこと)

妙徳寺神社

祭神は、國常立尊(くにのとこたちのみこと)。近世まで、沖船大名神(おきふねだいみょうじん)と松上大名神がそれぞれ祀られていたが明治の初めに合祀した。大正の頃、矢矯神社に合祀されたが、終戦後復興し社地を以前より下方の現社地に移した。

毛無山

標高570.5m湖南地区からみると山頂部が平らに切り取られた独特の形をしている。安山岩が多く露出し香取岩が有名。中腹に大正時代まで香取神社が祀られていた。山頂にはテレビ塔などが林立する。

観音さん

約250年前に因幡路付近に観音さんを祀る庵寺が建立されたのが始まりと伝わる。明治の末頃廃寺となり観音さんは宝泉寺に預けられたが、昭和30年に公民館隣に庵寺を再建した。

松原

湖山池の南西岸に位置し、鳥取鹿野線が東西に走り中央部を矢矯松原線が南に走る。昭和の初めまで水路交通の要所で、交通手段は船が中心であったが、徐々に道路が整備され陸路となった。湖南保育所がある。

3つの口碑

地名の由来の話「ブサの沢にホラ貝が棲んでいたので洞谷となった。」鶏山の宝物の話「鶏山の木の下に宝物が埋めてあり節分の日に鶏の鳴き声を聞くと宝物がもらえる。」雀観音の話「雀が盛んに餌を運んでいるので見たら観音様があった。」

河内洞谷の観音堂

金箔塗りの仏像三対昭和18年鳥取大地震により倒壊破損、鹿野より補修し再興する。近くに昔の井戸跡、経本が埋蔵されている寺跡あり。

洞谷神社

洞谷本村土居の北側の山腹に鎮座。摂社として一ツ橋土居の一ツ橋神社、河内土居の河内神社があり、三社とも素戔鳴尊を祀り、近世まで荒神と称していたが、明治初年に現社名に改称した。

洞谷とは、洞谷川の最上流の集落で、標高約120m。本村と河内、一ツ橋に分かれる。

破れ堂

洞谷宝篋塔(ほうきょういんとう)、五輪塔が4基ある。室町時代中期の製作と言われ各々二基祀られている。ここに、石の道標があり「右はしかの 左はまつがみ」と刻まれている。社殿があるがこれは昭和15年に尾木原氏の末裔といわれる荻原央冶氏が建立したもの。

高麗水

文禄2年(1593)9月の洪水。妙義橋の架かっている付近が、この洪水の河川争奪現象により尾山の尾根が削られて矢矯川と洞谷川が合流して現在の川筋となった。

筒井(梧城)寸風の墓

江戸末期に活躍した俳諧師筒井寸風は、明治元年(1868)96歳で没した。墓は吉岡温泉町の東にある小高い岡の墓所にある。墓石には「梧城寸風居士」と「釈妙高信女」が並び刻まれている。建立年号から妻茂佐(俗名きさ)の死亡時に寸風が立てたものと思われる。

箕上山

標高297mで三山口の谷の奥に位置し、その山頂に吉岡将監築城の箕上山城跡がある。現在は木が茂って見えにくくなっているが、防己城を真北にして吉岡から湖山池、賀露港、日本海、さらには鳥取城の向こうまで遠望でき、背後は毛無山、長尾鼻までが見渡せる。

観音堂

『箕上山観音寺』と刻された本尊如意輪観音像が安置されている。潮音寺とはこの谷の奥にある箕上山に吉岡氏が築城した際、当時この山にあった潮音寺に治めたもので、その後、吉岡氏が防己尾城に移った際、荒田村に建てた庵に安置されたと伝わる。

三山口神社

三山口の上手、山裾に鎮座。素盞鳴神を祀る。三山口の氏神さまである。中世以降、陰陽師(おんみょうじ)、山伏、法印、行者などが流布した地荒神と伝わる。明治初年に三山口神社と改称した。本殿の造りはこの辺りに多い流造と違い、入母屋造りの向拝と唐破風付いている。

鹿野往来

中世頃からの往来。鳥取城から行徳・古海・本高・立見峠・野坂・三山口・吉岡・瀬田蔵・洞谷・法楽時・鹿野・寺内・勝見を経て青谷で伯耆街道に至るまでの道。近世初頭から鳥取と伯耆を結ぶ近道としてよく利用され、伯耆中道とも呼ばれ賑わった。鹿野の亀井の殿様、鳥取の池田の殿様は湯村(吉岡)での湯治に利用した記録は多く残され、よく知られている。

三山口

吉岡温泉町の東。峠を越えた谷に位置する。中央部を三山口川が流れる。以前は深山口と書かれていたが、宝暦7年(1757)より三山口に改められた。

五輪谷

『因幡誌』によると、かつて高野山関係の寺院があったが戦乱のため廃絶したとある。その後、廃地となったが、五輪の台石など多く見られる。

天日名鳥命神社

大畑の福谷と堤見谷の間の山頂に鎮座。天日名鳥命を祀る。大畑、堤見の氏神さま。『延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)』(927撰)所載の神社で、近世は天鷺大名神と称していたが明治初年に旧称の現社名に復した。大正2年に福谷神社を合祀。同年、山の中腹にあった社殿を現在時に移した。

慈光山 教蓮寺

浄土真宗本願寺派の寺院。
本尊は、阿弥陀如来。開創は、明応年間(1492~1500年)山城国)(現京都府)の伏見の地であったと伝わる。

徳川家康の娘、督姫(とくひめ)の帰依を受け、池田家の国替えに従って、姫路・岡山・鳥取と寺院を替えた。

明治24年(1891年)現在地に移転。

本堂の屋根瓦の葵の紋は往昔の栄光を語っているかのようである。

末松神社

金沢大谷の上手、南の山裾に鎮座。速玉男命(はやたまおのみこと)、事解男神(じかいおのかみ)、素戔鳴神(すさのおのみこと)を祀る。金沢、松原の氏神さま。近世まで末松大名神と称していた。明治初年に末松神社と改称。文明2年(1471)の棟札があり、棟札としてはかなり古いものである。棟札=神社の事蹟を記した木札。

筒井寸風

筒井<悟城(ごくう)>寸風(1783~1868年)は、吉岡温泉町に生まれた。先祖は木地屋を本業としていた。
30歳で上阪、芭蕉の一門、五代の梅室雪雄に師事、帰郷後は家業のかたわら句作に励んだ。

19世紀中期の「鳥取俳人番付」には取締役に列せられるなど、因幡(いなば)・伯耆を代表する俳人であった。

株湯

葦岡長者が温泉を発見したとされる場所。
伝統では、葦岡長者の娘の悪瘡(あくそう)が治らず、日頃信仰する菖蒲山座光寺に参籠し、平癒(へいゆ)の祈願をしたところ、満願の夜、薬師如来のお告げがあり、お告げどおり「うつろ田」の柳の古木の下を掘り、湧き出た水で体を洗うと、七日のうちに平癒したとされる。

日輪山 禅福寺

金沢大谷の山裾に位置する曹洞宗の寺院。本尊は大日如来釈迦牟尼仏(だいにちにょらいしゃかむにぶつ)。その昔、大日如来が当山の裏山の現在奥の院と呼ばれる大日岩に出現したという。その時、大日如来が召されていた霊牛の足跡といわれているものも、この岩に残ると伝えられ、近年まで牛馬安全の祈願所として、人々の信仰を集めてきた。開創は承応年間(1652~1654)と伝わる。

気高郡立工業徒弟学校

明治40年(1907年)に設立、大正3年(1914年)に廃校。
文部省学校規定の本県初の工業学校で、指物・挽物・漆工・蒔絵の4科(定員各10名)があり県内各地から入学した。
宝泉寺の下に寄宿舎があった。